PROFILE



■略歴




2012年4月撮影


1955 和歌山県和歌山市に生まれる
1968 和歌山大学教育学部附属中学校
1971 和歌山県立桐蔭高等学校
1974 神戸大学工学部建築学科
1978 神戸大学大学院工学研究科修士課程建築学専攻
1980 株式会社 坂倉建築研究所
1984 ヨーロッパ巡礼 古代から現代に至る古典主義建築の調査研究
1989 北野彰作建築研究所 を大阪市に開設

(自宅 大阪府堺市北区)

メールアドレス kitano99@apricot.ocn.ne.jp




■資格

一級建築士/国土交通大臣登録 第160441号(1982年2月登録)
         定期講習修了証番号 第T145C-50405M号(平成26年11月20日修了)
一級建築士事務所/大阪府知事登録 (ヘ)第13310号(2014年10月 第6期登録更新)
              事務所開設年月:1989年10月
              管理建築士:北野彰作(2009年2月10日 講習修了)
設計専攻建築士/社団法人 日本建築士会連合会認定
              第1270600990号(2006年9月登録)
            専攻領域:統括設計  専門分野:戸建住宅(2011年11月2日登録)
既存木造住宅の耐震診断・改修講習「一般診断法」修了者
           /社団法人 大阪府建築士会 2008年10月登録
建築士賠償責任補償制度 継続加入事務所(1998年4月〜連続継続中)
           /ニッセイ同和損害保険梶@社団法人 日本建築士会連合会

■賞暦

1987 社団法人 日本建築学会主催 設計競技 全国入選
1994 兵庫県出石町 伝統町並みシンポジュウム いずし町家コンペ 佳作入選
2003 大阪ガス efil 主催 公開コンペ「京の住まい設計コンペティション」最優秀賞
2004 第7回「あたたかな住空間デザインコンペティション」新築の部 特別賞


■主なメディア紹介事例

2001年10月27日 MBS毎日放送「みかさつかさ」/GLASS BOX
2003年12月 1日 NHK総合「ニュース関西一番」/浜甲子園の家
2004年10月 5日 朝日放送「きらっと〜気になるあの家にお邪魔します」/三角の京町家
2005年 1月20日 TV大阪「ビジネス525」/浜甲子園の家


2002年 別冊カーサウエスト 関西の建築家インデックス2002
2004年 クラシシズムkansai創刊号/浜甲子園の家
2004年 新しい住まいの設計9/三角の京町家
2004年 カーサウエスト bP7/二つのパティオのある家 三角の京町家
2004年 自分らしい家2/三角の京町家
2004年 別冊カーサウエスト 関西の建築家インデックス2004
2005年 ・・・らしい住まいづくり/浜甲子園の家
2006年 住まいnet関西/二つのパティオのある家
2007年 別冊カーサウエスト 関西の建築家インデックス2007
2010年 別冊美しい部屋「土地探しから始める理想の家づくり」/三角の京町家
2012年 関西の建築家とつくる家 しあわせのスタイル/建築ジャーナル
2014年 A‐Style ♯087/中百舌鳥の家 南大阪の家U
2016年 BEST OF HOUZZ 2016デザイン賞
2017年 BEST OF HOUZZ 2017デザイン賞
2020年 BEST OF HOUZZ 2020サービス賞
2020年 住む/季刊夏NO.54 広告記事




■所属団体

社団法人 大阪府建築士会


アーキテクツ スタジオ ジャパン株式会社 日本最大級の建築家ネットワークの建築プロデュース会社


■自己紹介のページです。


これは7年ほど前の2007年1月に沖縄旅行したときの写真です。「中村家住宅」といって国の重要文化財に指定されている伝統的家屋でのスナップです。つい最近まで実際住居として使われていたそうで余りに居心地が良くて、つい広縁で腰掛けてしまいました。(もちろん家屋内は立ち入りOKで、家の隅々まで立ち入ることができます)今のはやりの高気密高断熱住宅(沖縄でこの看板を見たときは驚きました)とは対極の実に風通しの良い建物ですが、これもまたECOの究極の姿である事(築250年です)は違いありません。此の建築が自身の指針を示唆しているように思
え、2019年にも再訪しました。




私が生まれ育ったのは和歌山城の直ぐ東側、内堀端の直ぐ近くです。今でこそ公園の整備も進み観光化されていますが、私が小さい頃はこの堀に水が少ししか無かった時期もあってザリガニを釣ったりヤゴを持ち帰ってトンボに孵したりと、昆虫や小動物の宝庫でした。未整備だったからこそ子供が探検する「おもしろスポット」に事欠かなかったのでしょう。夏休みなども毎日朝早くから(蝉の孵化が見られる)夕方暗くなるまで飽きもせず遊んでいたことを昨日の事のように思い出します。私の家は小さな工務店を営んでいて、会社兼自宅の敷地内では大工さんが木を刻んだり(プレカットの無い当時、鉋がけや仕口の加工は全て手刻み)、左官屋さんがニカワやフノリをドラム缶で炊いたり(日本は古来よりエコをごく普通に行っていた)と、色々な職人さん達が忙しく働く姿に囲まれていました。小さい頃に絵画に興味を持ったのは小学生の1・2年の担任だった大好きな先生が、自宅のアトリエで学生相手に絵画教室をしていると聞いて迷わず入会、毎週日曜の午前中その静かなアトリエで過ごしているうちに自然と興味が沸いたのが始まりです。当時から何とも不思議な山の風景を何枚も制作していましたが、その先生が後々日本画家「稲垣伯堂」画伯となられます。和歌山に戻った時、和歌山市郊外のアトリエにお伺いしては新作を拝見させていただいていましたが、1998年ご逝去されました。師も無く全くの独学で精進され独自の境地に到達した方ですが、絵の顔料、和紙などの原料から本物を追い求める厳しい姿勢、熱く語る芸術への情熱は今でも深く印象に残っています。




和歌山城の正門である「一ノ橋」は太鼓橋となっていて堀を跨ぐようにして城郭内に入ります。和歌山市の城郭内公園整備事業の一環として東京工業大学名誉教授藤岡通夫氏のご指導の下、解体修復しましたが、近隣でもあったせいかと思いますが、晩年の父の会社が担当しました。しかしそれが彼の最後の仕事となり、完成して程無くして他界しました。長年地元の建築士会の役員を務め、後進の世話役等を務めていました。私がこの職業を選んだのは紛れも無く尊敬する父の影響が大きいのですが、彼は元々職業軍人の出身でした。戦争の是非はともかく国家のため、旧帝国海軍技術大尉として前線に赴いて桟橋や滑走路の整備に明け暮れ、最後は丸二年間駐留した西部ニューギニアを引き揚げ、セラム島経由で水雷艇「雉」に乗船して、B24の攻撃を受け九死に一生を得てスラバヤに上陸、今のインドネシア ジャカルタ近郊のバンドン飛行場で天皇陛下の玉音放送を聞いて終戦を迎えた、とは良く話していました。直後の9月、連合軍からしばらく終戦処理のため海軍作業部隊指揮官を命ぜられ、ようやく内地への復員の途につき和歌山県田辺市文里港に入港したのが翌21年6月だったとの事。既に齢25歳となっていた当時、公職追放の処分も受けて就職先も全く無く、生活のために請負業を始めた、とは物心付いてから良く聞かされました。本当は本意でなかったとでも云いたかったのかも知れません。彼は元々、建築構造力学が専門(師は吉田宏彦博士、坂部保治博士、角田重喜千博士)でしたが当時の地方では生業として生計が成り立たなかったのでは思います。建築構造事務所が本来やるべき、県や市の仕事を夜鍋して計算尺片手に構造計算書を作成していたのを朧げながら覚えています。また1981年の新耐震設計基準に法改正される随分以前から、建築基準法の問題点を指摘していました。在野のしかも地方の「土建屋」にそんな意識があったのか今にして思えば不思議ですが、繰り返し主張していたのは改正前の水平加速度0.2では全く耐力が足りない事や短柱が曲げ応力よりもせん断力によって爆発的に破壊するという趣旨の事で、同じような内容をより理路整然とした講義で、大学の山田稔教授(在学当時)から教えて戴き、初めて納得することができました。私も元々は理系指向でしたが、進学してから美術部(凌美会)に入り様々な美術系・文系の知己ができて自身が激変、美術デザイン系の分野に興味がつのり、専門課程に上がる頃には、すっかり迷うことなくこの道に進む意思が固まっていました。

■次は事務所のご紹介です。


大阪の代表的なターミナル駅であるJR天王寺駅から徒歩3分程度の、至極便利なマンションの1室に事務所を構えました。以前は浪速区の交通の便の悪い場所でしたので随分楽になりました。写真でいえば右手方向を直進すると駅に向かいます。天王寺は肩肘の張らない気さくな街です。ナニワの原風景を見るような雰囲気が漂い、地方出身の小生には居心地が良い所です。近くに聖徳太子が開祖(西暦593年)した、日本仏法最古の大寺、四天王寺があるために高齢者の往来が多い一方、有名進学校、予備校、各種専門学校が密集する文教地区でもあるためか朝から夜遅くまで学生さんの姿も見掛けます。因みに「悲田院(ひでんいん)」の町名の由来は聖徳太子が中国の隋に倣った四箇院(悲田院・敬田院・施薬院・療病院)の一つが地名として残ったもので、いわば国家による社会福祉施設の先鞭をつける由緒ある町名といえます。各地に同じ町名が有ったらしいのですが今日まで残ったのはこの天王寺だけのようです。聖徳太子が仏教の慈悲の思想を広めようとした篤い信仰心は、これまでの幾多の戦乱と自然災害による消失にもめげず今日まで脈々と受け継がれ、毎月21日は大師会(だいしえ)と云って弘法大師の命日(3月21日)にちなんで大勢の参拝客で天王寺界隈は殷賑を極めます。



書籍と資料に囲まれた小さな事務所です。白い打ち合わせテーブルの奥が私の仕事場です。昔と違ってT定規で作図しないし、資料もデータベース化しつつあるので意外と場所は必要としません。写真左側には熱帯魚の水槽が見えますが、パソコン画面による疲れ目を癒すにはとても役立っています。事務所内はMOZARTの音楽をBGMとして四六時中流しているのでこれによっても癒されています。(だから魚達も長生きなのかも?・・・)

■これまで「節目」となったコンペ(設計競技)について


これまで数多くの落選の憂き目にも遭っていますので戦歴という意味では別に大したことは無いのですが、これまでを振り返り自身の節目となったコンペについてお話します。大学院の1年でチャレンジした日本建築学会主催のコンペに我が大学では20年振りに全国入選を果たすことが出来ました。設計で身を立てたい気持ちはあっても、なかなか自身で踏み出せない中、辛口批評で鳴らす日建設計の林昌二氏も審査員の一人として参加していたこのコンペで認められた事は大いなる自信につながりました。憧れの坂倉建築研究所を受けてみようと「妙な気」を起こしたのも少なからずこの影響があったと思います。学校の推薦状も持たず、道場破りの気持ち(既にこの当たりでヘンですよね)で、それまで描き溜めた図面を持って飛び込んだ結果、偶然にも人員に空きがあって何とか滑り込む事が出来ました。人の縁って本当に不思議なものです。大阪事務所への入社でしたが入っていきなり東京事務所勤務を命ぜられ又とない修行の機会を得ました。当時の代表である建築家 西澤文隆氏にはその後の自身の方向性には大きな影響を受けました。入所して最初のお正月に竣工したばかりの高名な自邸(伊丹市)に呼んでいただき、隅々までご自身と奥様の解説を交えて拝見させて頂いたことは大変勉強になりました。坂倉スクールでの4年間は休日の無い過酷な日々でしたが、西澤氏を初め優秀なスタッフの皆さんに教えて頂いた事が余りに多く、今では西澤氏のいらっしゃった時期に在籍できたことを誇りに思っています。



坂倉事務所を退職して後、家族の事情で一旦帰郷しましたが、平成元年に再び大阪に戻って事務所を開設しました。その5年目、住宅の設計を専門分野として事務所の方向性を打ち出そうと思っていた矢先、兵庫県の出石で住宅の公開コンペがあるという情報を得て、詳しく調べてみると、何と建築家 宮脇壇氏が審査委員長を務めることが分かり、何として認められたい一心で臨んだところ(市民ホールを借りての公開のプレゼンテーションでした)、何とか入選を果たす(佳作入選)ことが出来ました。日本の住宅設計の第一人者に認められたことは、望外の喜びでありその後の自信につながりました。宮脇氏はその4年後に惜しくも亡くなられるのですが、応募作にお心の篭ったコメントを頂戴したことは大変有り難く思っています。



2003年に東京の「OZONE家づくりサポート」の主催で、関西での公開コンペがある、という情報が入り、クライアントご自身も参加するという事でしたので興味津々覗いてみました。配布された内容を読むと何と予算が1500万円で40坪の家を建てたい、というとんでもない内容(京都の中心地、商業地域・準防火地域)だったのですが、クライアントは真剣そのもの、コンペ主催事務局も条件は一歩も譲らない、という気迫に吃驚しました。最初は一瞬止めようと思ったのですが、福岡市でやった「三角のアトリエ」をふと思い出し、ヒアリングの間すでにラフプランを起こし始め、帰りのエレベーターに中ではすっかり参加する気持ちに切り替わっていました。結局、関西の設計事務所17社が参加しての競技の結果、ご縁あって最優秀賞を頂戴し、そのまま設計監理契約させて頂く事となりました。完成したのが「三角の京町家」です。このコンペの勝利に気を良くして、以降のコンペには「図面+模型+ドローイング」の三点セットで臨む、という事務所のスタイルが定着しました。その直後に「浜甲子園の家」「テラスダイニングの家」「姫路・青山の家」と立て続けに勝利を収めることができました。当時私に何か?が取り憑いていたのかも知れません。これまでの数々のコンペドローイングの「戦歴」は DRAWING 2 に掲載しています。




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